Member’s InterviewNo.0020 桂田 明日加

Interview2025.03.14

第二創業~自分たちで創る新しい組織~

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  • 伏見部会
  • 第19期 入会
  • 曙産業株式会社
  • 機械工具商社

皆さんこんにちは。総務委員会 委員、長岡部会の山下 徹です。

 

今回は、第23期伏見部会 部会長の桂田明日加さん(43)です。京都市伏見区で創業78年の機械工具商社「曙産業株式会社」の代表取締役を務めていらっしゃいます。前期はスポットライト委員長として、今期はJOC初の女性部会長としてご活躍されています。

 

いつも元気で明るく、前向きなイメージの桂田さんですが、振り返ると、辛く苦しい時代もあったといいます。これまであまり明かすことがなかったという波乱万丈の人生と、JOC活動や今後の目標を語ってもらいました。

 

お仕事について

記者:今日はありがとうございます。まずはお仕事について教えてください。

 

桂田:機械工具の商社です。祖父と祖母が1947(昭和22)年に創業しました。元は京都市の松原通にあって、始まりはリアカーに工具を詰めて売り歩いていたそうです。時は戦後の高度経済成長期。工具を仕入れただけ売れたそうです。

 

記者:元々伏見での創業ではないのですね。

 

桂田:伏見に土地を買って移ったのは40年ほど前です。お客様は金属加工を中心に大手もありますが、50人以下の町工場が多いです。モノづくりに必要なネジや⼯具のほか、オフィスや倉庫など会社で使うもの、また部品や商品を整理する棚や暑さ対策の送⾵機など、何でも取り扱っています。「こんなものあるかな?こんなこと出来るかな?」という時に⼀番に思い出してほしい会社です。

記者:韓国とも長く取引されているそうですね

 

桂田:はい、韓国とは30年以上取引があり、こちらは国内とは違って、主に半導体製造装置関連を輸出しています。現在の売り上げの半分は韓国関連です。韓国人スタッフも2人いて、日本語もペラペラです。

 

記者:2022年から代表取締役を務めていらっしゃいますが、会社にはいつ入社されたのですか?

 

桂田:入社したのは2016年でした。実は大学3年生でちょうど就職活動をしていた時に子供を授かり、4年生で出産しました。卒業はしましたが就職はせず、当時の夫の大阪の実家で子育てをしていました。

 

記者:学生時代に出産されたんですね。その後もずっと大阪にいらっしゃったのですか?

 

桂田:いえ。24歳で2人目がお腹にいた時、実の母が肺がんで亡くなりました。53歳の若さでした。私は3姉妹の長女。父が一人になり、末っ子もまだ高校3年生でした。家のことをする人がいなくなったので、私が京都に帰って2人目を生み、このタイミングで夫も曙産業に入りました。正直「これで安泰だな」と思いました。

 

記者:なるほど。

 

桂田:ですが、次第に夫婦関係と家族関係がうまくいかなくなりました。夫も頑張っていたと思いますが、結局会社を去ることになりました。当時29歳。離婚を経験しました。

 

記者:辛い経験をされたのですね

 

桂田:子供2人を抱えたバツイチシングルマザーになりました。親の会社でもあるし、食べていかないといけないので、父に「会社に入りたい」と伝えました。でも断られました。「社会を知らない人間は入れられない」。そう言われました。まさかこの状況で親に突き放されるとは思いませんでした。「娘だから働かせてもらえる」。私自身、甘えていたところがあったんでしょうね。でも今になって、父のその厳しさが本当にありがたかったと感じています。

 

記者:その後はどうされたのですか?

 

桂田:離婚前からパートはしていましたが、確かに何のキャリアも実績もありませんでした。初めはフルタイムでパートをしていましたが、やはり食べていけないので、正社員を目指し、オフィスワークを経験しようと就職活動をしましたが、ことごとくダメでした。20社くらい落ちました。面接官に「これまで何してたんですか?」と言われました。やっと1社、採用してもらいましたが、今でいう「超絶ブラック企業」。

 

記者:なんと。

 

桂田:苦労話を自分で語るのは好きではなく今まで語ったことはないんですが、この際全部言いますね(笑)

 

記者:お願いします(笑)

 

桂田:毎日社長が泣くまで怒ってきました。いい歳して泣くなんて悔しくて恥ずかしかったです。地図だけ渡されて営業をしました。子供が熱を出しても休めず、運動会は妹が見に行ってくれました。子供の為に働いているのに子供と過ごす時間がなく、何のために自分は働いているのだろうと思いました。

 

記者:大変でしたね…

 

桂田:辛くて結局7カ月で辞めました。当時、本当に貧乏でかつかつでした。給料日まであと3日もあるのに、千円しかないこともありました。でも「何が何でも子供だけはしっかり育てる」と決めていました。お金がかかるので遊びにも出かけられず、おにぎりを作って公園や無料のプールに行き、私はもやしを食べていました。車も売りました。今まで好き放題させてもらったのに、急に自分で全部しないといけなくなったんですね。お金の大切さが身に染みて分かりました。ただ、こうなることは自分で覚悟して離婚しました。なぜか意地でも親には頼りたくなくて…

 

記者:その後はどうされて?

 

桂田:次は2か月間就活して、某大学の事務職員になりました。ここはみんなが神様みたいに本当に優しかった。天と地ほど違いました。一生居たいと思えるくらいでした。大きな組織でしたので規律や習慣もかなりしっかりと完成していて色々と勉強になりました。

記者:その時会社はどうだったのですか?

 

桂田:会社は前の夫が去って、後継ぎが不在になっていました。そこに、いとこが東京の会社を辞めて入社しました。でもまたうまくいきませんでした。経営陣と社員の間に埋められないほどの溝が出来、揉めていました。いとこは反発し、そしてまた辞めていきました。

 

記者:当時の会社の財務状況はどうだったのですか?

 

桂田:5年連続の赤字で債務超過直前でした。父親は優しく人情で物事を進める人。商売人というよりは学校の先生みたいなタイプでした。売り上げの割に人ばっかり増えていました。給料を払うために借金をする。そんな状態でした。借金はどんどん膨らむむばかりでした。何でそんなに赤字になっているのか。沈んでいく船を黙って見ていることが出来ませんでした。おじいちゃんとおばあちゃんが作った会社です。どこか他人事でいたかった自分と向き合って、もうこれ以上関係ないフリをすることが出来ませんでした。

 

決断のとき

記者:そこで入社する決断をされるのですね。

 

桂田:はい。振り返ると、これまで好きなように生きさせてもらいました。この会社があったから、私立の高校、大学に行かせてもらいました。習い事もさせてもらいました。このタイミングで子供も大きくなっていました。「今入ってもやっていける」。そう思いました。どうせ潰れるなら父と一緒に、社員・関係先に迷惑をかけないように閉めていこう。一か八か。覚悟を決めて入りました。それも全て失うかもしれないがそれでもいい、と相当の覚悟で。父には一言も頼まれていませんでしたが「私に会社をやらせて欲しい」とお願いして入社しました。その時妹にも声をかけ、一緒に会社に入ってもらいました。

 

記者:実際に入ってみてどうでしたか?

 

桂田:妹は現場で私は経理を見ました。実務もかなり多く毎日21時過ぎまで、土日も1人で会社に来て仕事する日も多かったです。また子供たちには苦労かけましたが今が一番踏ん張り時と思ってました。私も妹も、2年ほどは、がむしゃらでした。経理で入ったこともあり、無駄な経費がたくさん目につきました。また、会社のルールもゆるゆるでした。考え方や方向性が合わないと感じる人は居心地が悪くなって、数年で約半分が辞めました。変革の為に必要だと思って変えたことも多く、冷血非道な娘だと思われたかもしれませんが、むしろ改革のためにはそれも必要と信じていました。

 

記者:凄い…中々出来ないですね。

 

桂田:その分、若手の採用と組織変革に時間とお金をかけました。会計士さんとは当初、「5年で会社をたたむ方向になるかもしれない」と言っていました。しかし、輸出の売り上げが伸びたこともあり、人が減ったのでかかる経費も大幅に下がり入社翌年からはV字回復して黒字が続き、やめる必要はないのでもう少し頑張ろうということになりました。借金も今では3分の1まで減らせました。

 

記者:社員さんも若い方が多いですね。

 

桂田:今は人の入れ替えができて、一人を除いて全員が入社6年前後です。いわば、第二創業の状態です。80%が女性で平均年齢は34歳と大きく若返りました。男社会の業界としては非常に珍しいと思います。

 

記者:確かに。

 

桂田:営業は男性3人に加え、女性10人が社内で見積もりや値決め、交渉などを行っています。私が社長になってから、昔ながらの「何かないですか?」の営業はやめようと言いました。3年間の売り上げをすべて分析し、どうやって受注したかを明らかにしました。行ったときに受注したのか。直接電話がかかってきたのか。年間売り上げや注文内容もすべて調べて、行くべきところと行かなくても良いところを分けています。

 

記者:これからどういう会社にしていきたいですか?

 

桂田:「自分たちで創りだし、動き続ける組織」を目指しています。世の中が変わる中、自分たちで考えて自分たちで乗り越えていかないと生き残れないと思っています。日々、「こんなことを疑問に思っている」とか、「こうした方が良い」というアイデアが出てくると思います。それを協力して考え、実現させるプロジェクトチームを1年前から始めていて、実は今日その発表会がありました。一つずつ自分たちで考えて組織を作っていってくれて、感動して泣きそうになりました。社員にとっても自分たちが言ったことが実現し、会社を作っていくという手ごたえを感じてくれてよかったと思っています。

 

JOCについて

記者:次はテーマをJOCに移したいと思います。JOCに入られたきっかけは?

 

桂田:会社に入った2016年に伏見支店長に誘われて入りました。正直、単なる遊びの会だと思っていました(笑)

 

記者:(笑)

 

桂田:当時は妹も会社にいたので、JOCで初めて姉妹で入りました。

 

記者:当時はまだ女性会員が少ない時代でしたね。

 

桂田:少なかったですね。ただ、2017年くらいにOG会員の大久保 真紀さんが、当時の女性会員に声をかけ、お食事会を開いてくれました。

 

記者:ほう。

 

桂田:「私はもう卒業するけど、女性同士で仲良く団結してほしい。一人でも仲の良い女性がいれば、JOCに行こうってなる」。そう仰っていました。その時に初めて杉本 礼江さんや、高日 結美さんなど今のJOCで中心となって活躍するメンバーと出会いました。大久保さんとは今でもお会いしますが、あの時のことは本当に感謝しています。

 

記者:第21期から本部に入られ、第22期はスポットライト委員長も務められますね。

 

桂田:はい、第21期に初めて例会委員会に入りました。委員長はのちに代表幹事に就任される須田 真通さんでした。

桂田:第22期はスポットライト委員長を務めさせていただきました。須田さんから「自分が代表幹事をやるので、ぜひ委員長をやってほしい」と電話が来て、二つ返事でOKしました。大役でしたが、オフィシャルサイトを運営するにあたり、会員紹介を週1回、1回も休むことなく2年間やり遂げました。コロナ渦で集まることができない中、どうしたらみんなで交流できるか。ちょっとでもお互いを知るきっかけになってほしいと思ってメンバー全員で頑張りました。

 

 

記者:この2年間は、JOC初の女性部会長として伏見部会をまとめあげられましたね。

 

桂田:皆さんのご協力のおかげです。伏見部会の女性会員も4人に、メンバーも2年で倍の34人に一気に増えました。今までは幹事会や事業をやるにしても居酒屋さんが多かったのですが、私の代では普段行けないところや、男性ならまず選ばない場所で開催しました。おしゃれな伏見部会にしたかったんです。総会はアカガネリゾート、忘年会はシックスセンスで行いました。卒業旅行は長崎に1泊2日で行きました。

 

令和6年度 伏見部会通常総会&懇親会

JOC伏見部会研修事業 〜歴史・伝統と挑戦を学ぶ〜

卒業旅行

 

記者:あと2年で卒業になりますね。

 

桂田:はい。来期は次の今村 哲也部会長をしっかりサポートしたいと思います。一部会メンバーとして、心置きなく楽しみたいという気持ちです。部会長は本当に楽しかったです。

 

記者:最後に、JOCに入ってよかったことは何ですか?

 

桂田:大人になって友達と思える人ができたことです。経営者が集まって、男女関係なく話せることは本当に良いことです。部会長や委員長など、会社にいるだけでは経験できないことも出来ます。会社の今の立場ではもうないですが、はっきり厳しいことを言ってくれる仲間もいます。本当に成長させてもらっています。そこから仕事につながるネットワークもあり、貴重な機会にもなっています。

 

記者:桂田さんがこれまであまり話してこられなかったという過去の苦労話や、会社に対する想いを知ることが出来ました。本当にありがとうございました。

 

曙産業株式会社

住所:〒612-8452 京都市伏見区中島堀端町97

TEL:075-612-3951

HP:https://www.akebono-c.co.jp/

 

社内もとてもお洒落で、業界のイメージとは違い女性経営者ならではの魅力溢れるオフィスでしたので、紹介させていただきます。

 

 

 

第23期総務委員会よりメッセージ

委員長を務めさせていただいております大津部会の林 良輔です。合計20回に渡るインタビューも今回で最後となります。その最後にお伝えしたいこととして、今回桂田さんの取材を実施させていただきました。

 

桂田さんの取材をさせていただいたのには実は理由があります。実は私も第22期スポットライト委員会の皆様から会員紹介ということで取材に来ていただきました。取材の後、様々な会員さんからお声がけいただくことが増え、私自身どんな方がいるのかと興味を持ちオフィシャルサイトの更新をチェックするように変化しました。そこでこの活動に大変感心したのを覚えています。

 

今期、私も第23期総務委員長を務めさせていただくにあたり、この素晴らしい企画をぜひ続けたいと思い、今回インタビューという形で実践させていただきました。はじめる際の相談で、桂田さんに「あんなしんどいのやめとき!(笑)」と言われたのも覚えています。

 

ただ、今回総務委員会メンバーとして数多くの会員の皆様のところへお邪魔させていただき、自分の目で見る、自分の耳で聞く、そして実際に行って社風を感じることで、様々な刺激をいただきました。そのお礼としてではないですが、最後に桂田さんの会社に行ってお話を伺いたい、そう思いました。

 

この企画を通じて京信ジュニア・オーナー・クラブの理念である「人と人との交わりから」を感じていただけたでしょうか。昨今環境は目まぐるしく変化しており、各社様々な取り組みを行っていらっしゃるのを訪問することで肌で感じる事が出来ました。その変化を乗り越えるために必要なこと、それがまさに「人と人との交わり」であるとこの企画を通じ、実感しました。

 

このインタビュー企画を読んでいただき、会員の皆様や卒業された先輩方に同じように感じていただければ大変幸いです。また、これからご入会される方や日頃お世話になっているコミュニティ・バンク京信の皆様にもこの素晴らしい会の魅力を少しでも伝えられ、仲間になっていただきたいです。この京信ジュニア・オーナー・クラブは同じ悩みを持つ人たちが共に未来を切り開いていける魅力があります。ご興味のある方は、ぜひご参加ください。

 

長文となりましたが、ご静読ありがとうございました。以上で第23期インタビューを終了します。

京信ジュニア・オーナー・クラブで「自分たちで創りだし、動き続ける組織を目指していきましょう。

 

 

総務委員会取材チーム

記事作成    山下 徹(長岡部会)

インタビュアー 林 良輔(大津部会)

アシスタント  荒木 正登(東九部会)

アシスタント  中村 圭吾(伏見部会)

アシスタント  岸場 啓太(近江部会)

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