【 “記憶”の時代 】
皆さま、こんにちは。
本店部会の山田晃弘と申します。
先日何気なく見ていたネットニュースで、映画監督の行定勲氏が非常に面白い話をしておられた。
https://news.yahoo.co.jp/feature/967
詳しくはお読みいただきたいが一節だけ引用させていただく。
行定氏曰く、「芸術のほとんどは、記憶から生み出されている」
他方、全然関係のない話のようだが、私は仕事で折詰(お弁当)を作ることが多い。
同じ材料を詰め合わせても、誰が詰めたかによって、見た目は明らかに変わる。
玉子焼きや焼き魚、煮物など、材料をすべて揃えておいて、同じお弁当箱を用意して、さあ好きに詰めようと子供に言えば、ある子は全ての種類を少しずつ詰めようとするし、また別の子は好きなものを好きなだけ詰めようとする。少し大人になれば、見た目や配色のバランスも考えたり。
性格が出ると言う人もいるが、小学生くらいまでの子供は、まず無意識に母親(もちろん父親や祖父母等でも)の作るお弁当に似た物を作ろうとする。
お弁当は芸術か?
と問われると、答えに窮するが、見てきた物、経験してきた事によって、人のアウトプットする事物は大きく変わる、と言えば、共感される方も多いのではないだろうか。
そういう意味で、私はこれから“記憶”の時代がやってくる、とも考えているのだが、ここで私の言う“記憶”というのはもう少しわかりにくい、言葉では説明しづらいものに感じている。無意識下の記憶が及ぼす影響とでも言おうか。
子供は「母親の作るお弁当」の記憶を頼りにお弁当を作ろうとするが、これが例えば「モナ・リザ」の記憶を頼りにお弁当を作る、と言うと笑われてしまうだろうか。
美しさには絶対性があり、芸術がその大きさと方向性を示すものだとすれば、その解釈と展開先は無限であるということだ。
JOC会員の中には、美容室を経営なさっている美容師の方もおられるが、美容師はその名の通り、お客様の“美”を作っておられるし、税理士の方に聞けば、数字のバランスにも美しさはある。「モナ・リザ」級の決算書もあれば、小学生の落書きのような決算書もある。いずれも作るのは人だ。
とにかく、「美しい」物に接する、「美しい」部分を探す。
これが記憶の奥底でどのように働くかはわからないし、遠慮なく笑っていただければ良いが、私は美しいお弁当を作るために、美術館に行くのである。
冒頭、行定氏の言葉の通り、自分が見た、経験した記憶以外から、何かを生み出すことはできない。無から芸術(美)は生まれないのである。
とすれば、若き経営者である我々が、芸術や美に触れることは、即効性にこそ乏しいが、大いに意義あることに思う。
さて、私の属する本店部会では、今夏7月に上村部会長の肝いりで、現代アートを題材とした部会事業を計画しています。
“芸術”と聞くと、構えて、とっつきにくいと感じられる方も多くおられると思いますが、こういった目線で芸術に触れてみれば、感じ方だって変わってくるはず。今から開催を楽しみにしています。
最後に、「おいしい」は、「味が美しい」と書くのです。
長文最後までお読みくださり、ありがとうございました。
本店部会 山田晃弘