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牛鍋と人力車

10.04.16

肩ロースしゃぶしゃぶ用.jpg 西田です。
新しい時代や、時代の変わり目などには、よく奇想天外な人物が現れますよね。
文明開化の明治時代にも、牛鍋の流行を見て、いち早くチェーン化を図ろうとした男がいました。
ちょっと変わり者だったこの人、「荘平」という名でしたので、子供の名前には全て「荘」の字をかぶせ、そのあとは誕生順に一、二、三の数字をつけたそうです。
そして牛鍋屋のチェーン化に当たって考え出したのが、屋号は「いろは」の48文字をつけることです。
その第一号店は東京で「い」の店でしたが、その後明治11年頃には東京15区内に全て支店があったといいますから、今流行の牛丼チェーンもその先見性にはとても及びませんよね。
はじめは東京中に「いろは」48店舗を作るつもりだったらしいのですが、「い」から「ね」までの店を作ったところでそれ以上の拡大を思いとどまったそうです。
というのも、この牛鍋屋「いろは」の経営は全て彼のおめかけさんに任せるというのが方針で、いかに奇行の持ち主でも、20人のめかけを集めるのが精いっぱいだったのでしょうか??
それにしても毎日一度は必ず各店に顔を出し、細かく売り上げを点検することにしていたのですから、今の23区ほどではなかったにしろ、市内15区を毎日くまなく駆け巡るというのは大変ですよねぇ。
で、彼は当時の文明開化の乗り物としてカッコよかった人力車に目をつけ、これを奇抜な赤塗りにした上、普通の一人で引くところを三人引きにして、ひと目につくような格好で市内を駆けめぐらせたとのです。
そして、彼は一躍有名となり、その結果牛鍋のチェーン店も20店舗を数えるほどの大成功を収めたのです。

何とも豪快というか、大胆というか、昔の人って凄いですよねぇ~!

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