洛南部会 池上広報担当 ご結婚おめでとう! |
10.10.19 皆様こんにちは~ 一昨日にメルパルク大阪にて洛南部会 池上くんの挙式・披露宴・二次会に出席してきました!部会からも15名ほど参加し祝福してきました! 池上くんの会社はご存知の福祉事業で自身もケアマネジャー試験にも合格されています。あと、偶然なのか?楽器が出来る社員さんが多く”サンテラーず”というバンド名でこの日のために夜晩くまで練習に励み、社長の晴れの舞台にと猛練習されていたそうです。素晴らしい社員さん方にもいっぱいの祝福をされていました。 二次会も同会場でおこなわれ二次会からの参加者とも楽しく幸せな一日を送られました。末永くお幸せに!! 杉本代表幹事からも祝電が届いていました!ありがとうございました。 当日の画像は私まったく撮っておりませんで・・・申しわけございません・・ あれっ?広報担当は新郎だから本人からアップされるのか?? 長野
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名言集(6) |
10.10.19 南部会(情報委員会)の寺阪です。 またまた名言の紹介をさせていただきます。 「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」 名門・尼子家の重臣として、戦国時代前半を駆けた山中鹿之助の超有名な名言です。 僕自身、昔は、 この名言が大好きでしたが・・・・ 正直今では、あまり好きではありません。。。 経営者となって・・・辛くて、しんどい事ばかりだったので・・・・ 悪い事は数珠つなぎのようにどんどんとやってくるものです。。。 心配いりません!!! 願わなくても七難八苦はやってきてくれますから~~~(残念) 正直、「願わくば七難八苦はこないでくれ~」と、いつも思っております。。。 山中鹿之助は、 知勇に優れた武将で、当時ではかなり有名な剣豪でもあった。 滅亡した尼子家再興を誓い、毛利家との戦いに生涯をかける。 負ければ潔く死を選ぶことが当たり前だった戦国時代において、 山中鹿之助は、敵方である毛利家に囚われても、監視の目をかいくぐり、 トイレから糞まみれになりながら脱出を図ったりするなど、 決して最後まであきらめない、ある意味「戦国一の悪あがき武将」である。 最期は、吉川元春に謀殺されてしまいますが・・・・ この「決してあきらめない精神」と「しぶとさ」は、学ぶべき点が大いにあります!! 僕は、山中鹿之助のそういった点が大好きです。 しかし、これで終わりではありません。 まだまだ最後までお付き合い下さいませ。 山中鹿之助には山中新六という息子がいたのは知ってましたか?? 新六は、父親の死後、武士をやめ、伊丹で商人の丁稚奉公をする。 当時は商人の身分がかなり低かったので、武士を辞め、商人の丁稚奉公なんて、 かなりあり得ないくらいアンビリーバルな出来事である。 しかし、これだけでは終わらない。。。。。。。 新六は、造酒製法の失敗から、 なんと清酒を作り出す事に成功・・・・・ それをきっかけに一気に豪商への道へ!!! そして、なんと「鴻池財閥」の創始者となる。 鴻池財閥・・・・・ 江戸時代最大の豪商であり、当時の日本の富の半分以上は鴻池が 握っているとさえ言われていた。 明治時代の廃藩置県(各地の藩に貸金をしていたのを踏み倒された)や 戦後の財閥解体などで勢いはなくなってゆくが、 あの三和銀行は鴻池財閥がつくった銀行であった。 戦国時代の超有名な武将の息子が、 江戸時代のNo1豪商となる。 ホンマにビックリさせられる「嘘のような本当の話」です。 これだから歴史は面白い!! 長々とお付き合いいただきありがとうございました。
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秋の夜長 |
10.10.13
情報委員会の山口です。いつもありがとうございます。 先日お得意様に、大正時代のお得意様の写真を見せていただきました。パネルになって役所に飾ってあったものを返却することになったそうで、お得意様自体もその写真の存在を知らなかったそうです。 今は二車線の幹線道路となってる道もその時代はクルマ一台分くらいの砂利の道。掲げられてるのは今も残る木製の看板。ピントがばっちり合ってるのはこちらを見つめる先々々代。鳥肌が立つ一枚でした。 僕が何気なしに撮ってる写真のどれか一枚でも後世の誰かが何かを思うきっかけになってくれれば嬉しいなーなんて思いますが、とりあえず現在の秋のこの時間は、来年の年賀状にはどれを使おうかと悩んでます。 上の写真はこないだの連休に太陽が丘に行ったときのものです。 日本の夜明けは近いぜよ! しかし息子よ、キミが見てるのは夕日だよ。
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名言集(5) |
10.10.12 南部会&情報委員会の寺阪です。 名言がまとまりました~ 「わが家には銀の冑を着た兵がいて、 戦いのたび毎に真っ先に進み出て、 よく働いている。 この男に劣らず振る舞うようにいたせ。」 戦国武将である蒲生氏郷が、新しく雇い入れた勇将の士たちに対して述べた言葉です。 ところで一体「銀の冑を着た兵」とは誰か???? 本当に、戦となると、 本当に「銀の冑を着た兵」が、真っ先に敵陣に切れ込んでいった。。。。 なんと!!驚くことに・・・・ 「銀の冑を着た兵」こそ「蒲生氏郷」本人だった。 蒲生氏郷・・・・ 豊臣秀吉の配下でありながら、 豊臣秀吉が恐れた男!! 常に、率先垂範を信条に、 大将自ら真っ先に敵陣に切れ込む潔さと勇猛さ、 ただ単なる猪武者ではなく、 知略にも富んだ戦術家。 その才智に、 織田信長は惚れ込み、 (自らの次女と嫁がせる) しかし、豊臣秀吉は蒲生氏郷を恐れ、 その率先垂範ぶりを、秀吉は特に恐れたらしい。。 朝鮮出兵の際にも、 「勝利したら、朝鮮半島は私に」という蒲生氏郷を、 出兵させなかったそうです。。。 結局、 松坂から奥州へ移封となる。。。。 奥州で92万石という大大名となるが、 「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。 小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」 といって涙したという。 豊臣秀吉は、 移封を嫌がる蒲生について、 「さもあるべし。こっちに置いておくと恐ろしい奴だ。 だから奥州にやったのだ。」 と述べたという・・・ しかし、45歳の若さでで死んでしまうとは・・・・ 本当にもったいないですね。 もしかしたら・・・・ 天下人となっていたかもしれませんね。
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支部会長会議 写真3 |
10.10.09
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